はっきり言わせてもらうと、現時点で、ネットの「公平・中立性」は必要ないと思う。それは、公平性に欠いた場合、罰則があるかどうかと言う意味でだ。
ネットは情報や意見の集合体である。様々な情報や意見が飛び交っているからこそネットだからだ。私が書いている、まさにこの記事であっても、無数にある「食べログ事件」に関する意見記事の一つでしかない。その記事一つ一つに「公平・中立性」を求めていたら、記事を書く側からすると、窮屈でしょうがない。罰則があったらなおさらだ。様々な事象を分析したり、知識を集約したりする手間も暇もかけなければならなくなる。
そんなめんどうなことを考えずに、思ったままままを書き連ねることができるからこそ、自由な空間なのだ。もし一般的に間違った意見であれば、それをお互いに正してゆけば良いことだと思う。そういうコメントの余地もネットには十分ある。そんな意見の集合体全体で考えれば、十分に「公平・中立性」が保たれているのではないか。
「食べログ事件」に象徴される、有料書き込み業者を擁護するつもりはない。そんなことよりインターネットに参加した時点で、「正しいクチコミ」と「やらせのクチコミ」を見分けるのは、我々運営している(書きこんだり読んだりする)側の責務と考えるほうが前向きなのではないか。社会全体で運営していくメディアだからこそ「ソーシャルメディア」なのだから。
やたらと「成長したい!」と言う人がいます。そういう人に「成長して、何がやりたいの?」と聞くと、「えっ?」という顔をされたりします。
1 名前:以下、はてなにかわりまして元増田がお送りします。 投稿日:2011/10/22 21:17:46
さっきFacebookを見たら、知り合いの女の子が梅田で数人ではしゃいでいる写真がアップされていた。
率直な感想が、「うわ、うらやまし」だった。
というのも、その間自分がしていた事は家のパソコンで一人画像を見ながらオナ○ーだったから。
このギャップ。現実のギャップに落ち込む。リア充への憧憬は隠せない。
これは確かなことだ。嘘はない。でも、なんか違うんだよな。本当のことを言うと、違う。なかなか理解されないけど、この憧れというのは、「自分もその場に居合わせたい!」という願望ではない。「自分も女の子と一緒にはしゃぎたい!」というのとは、実際は違う。そこに落ち込んでいるのではない。リア充と僕の隔絶は、そこではない。
僕は、リア充にはなれない。それは、「土曜のこの時間に女の子と一緒にはしゃいでいないから」ではないのだ。そして、僕がリア充に憧れているのは、今の自分のこの状況に悔やんでいるからではない。では、なんなのか。
今まで何度も経験したこの感じ。大学の人達と飲みに行ったとき、朝までカラオケをした。6人か7人ぐらいで、ノリがいい男2人と僕と、女の子4人だったかな、忘れた。飲みに行って、その後カラオケ、よくある事だ。その後にも何度かあった。
ぜんぜんたのしくないんだよな。
女の子が不細工だとかそういうことではない。曲が合わないとか会話に入れないとか、そういうのも関係ない。そんなに言うほど仲いい人たちじゃないとか、そういうのも違う。男ばかりだったらとか、女ばかりだったらとか、そいうのも関係ない。ただ、こうやって集まって盛り上がるとかが鬱陶しい。自分は一人で居るほうが気が楽だ。本当に、経験するたびに思う。そういう自分に気づく。でも、誘われたら行く。なぜなら、リア充に憧憬があるから。でも、そのたびにまた現実にぶち当たる。馴染めない。
自分がリア充になれないのは、そういう環境に身を置けないからではなく、その状況を良いと思えないことにある。
僕が憧れているのは、僕が羨ましいのは、「その状況を楽しいと思えることそのもの」だった。
河野は、元首相の森喜朗に呼ばれ、「おまえいい加減にしろ」と怒られたという。その度に、「何で私がいい加減にしないといけないんですか。いい加減しろと言う矛先は役所でしょ。役所に言ってください」とケンカした。
河野は特に“国立マンガ喫茶”として有名になった、「メディア芸術総合センター」に噛みついた。土地に30億円、建物に70億円、設備に16億円、事務費に1億円、合わせて117億円。「中に入れるマンガやアニメやゲームの予算が残っていないじゃないか」と突っ込むと、「ご寄付いただこうかと思います」と文科省。
「(著名なアニメ作家、監督、脚本家である)宮崎駿さんがそっぽを向いたら、宮崎アニメは建物に入らないじゃないか。そんなのありか。じゃあ、どうやって運営するんだ」と聞くと、入場料収入で1億5000万円、グッズの売り上げで2億円、合計3億5000万円を見込んでおり、それで賄うと言う。
「入場料収入はいいけれど、グッズの2億円は仕入れがあるよね。当然、全部使えないよね。仕入れは幾らなの」と詰めると、課長は「えっ、それは、その…」と言ったまま絶句したという。
「もうこれはダメだね、はい凍結」と結論を下した河野は、またしても前財務大臣の与謝野馨から、「河野はマンガやアニメやゲームの重要性をちっとも分かっとらん。けしからん」と怒られた。河野は言う。
「けしからんのは財務大臣でしょ。マンガやアニメやゲームが日本の文化として海外で評価されていることも、経済的に重要であることも十分に分かっている。でも、何で117億円かけて5階建ての建物を作ると、マンガやアニメやゲームの産業が盛んになるのか。何の説明もない」
人はお金さえあれば幸せになるというものではありません。たとえば国際比較調査では、一人あたりGDPが一万ドルくらいまでは、所得が増えるほど幸福度が上がるのですが、
一万ドルから一万五千ドルを超えたあたりで、幸福度との相関が弱くなると言われています。つまりそのくらいから、お金だけでは幸せを感じることができなくなるのです。
では、どういったところで幸せを感じるのでしょうか。
その答えは、「身近な他者に対して手助けをすること」にあります。
社会貢献という言葉は、いまや流行り言葉ですが、誰かのためになることをしたいと考えている人に、「幸せだ」と考えている人が多いのです。
しかも、たとえば地球環境全体、人類全体のことを考えて貢献しようという人よりも、自分の身の回りで、自分にできることから始めていこうという人の方が、幸せになる度合いが高いということも分かりました。
これは、社会貢献というものを、ちょっと重たい、堅苦しいものだと考えている人には、意外な結果かもしれません。
この本で話しているのは、こうした「幸福感を生み出す他者への貢献」とはどのようなものかということです。
そして、今の日本社会では、どんな貢献が求められているのか、なぜ他者を手助けすることがこの社会に必要なのかといったことについて、歴史をさかのぼりながら説明しています。
「何か自分にもできることがないか。そう思いながら、でもどうしていいか分からない」という人にとって、本書は「意味のある他者への貢献」を考える、ひとつの材料になるのではないかと思います。 (「まえがき」より)